コーヒーの歴史

コーヒーの歴史[日本編]

1.日本へのコーヒーの伝来(江戸時代-明治初頭)

2.ようやく人々に受け入れられ始める(明治時代)

3.ようやく大正時代にて拡大、近年のグルメ志向(大正時代-現代)

1.日本へのコーヒーの伝来(江戸時代-明治初頭)

はじめて日本にコーヒーが伝わったのは、江戸時代初頭の長崎出島で、人々に受け入れられるようになったのは、明治時代になってからです。

最初、その味と香りになじめなかった日本人

西欧諸国ではコーヒーハウスが次々とオープンして、コーヒー文化と呼べる文学や芸術が開花していたころ、日本は江戸時代で、厳しい鎖国政策の真っ只中にありました。

当時最先端だった飲み物のコーヒーは、長崎出島のオランダ商館設立(1641年・寛永18年)以降オランダ屋敷に持ち込まれただろうと推測されます。

しかし外国人に接触できたのは、役人、商人、通訳、遊女などの限られた日本人のみ、1776年(安永5年)に記された「ツンベルグ日本紀行」(山田珠樹訳・雄松堂書店刊)には、「二、三の通訳のみがようやくコーヒーの味を知るのみである」とあります。

せっかく出島に入ってきた西洋文化の象徴「コーヒー」も、江戸時代の日本では普及しませんでした。

本格的な普及は、明治も半ばを過ぎてからになります。

2.ようやく人々に受け入れられ始める(明治時代)

伝来当初はコーヒーに対して拒否反応を示した日本人でしたが、開国して明治時代に入ると、西洋文化の象徴であるコーヒーを積極的に受け入れようとする姿勢が見えてきます。これは西洋文化を取り入れ、西洋人と積極的に付き合おうという日本人の文明開化への憧れでもありました。

そして長崎、神戸、横浜、函館などに次々に外国人居留地が作られて、そこで外国人から接待を受けたり、欧米諸国への使節や視察や留学などで洋風の食事を経験したり、横浜などに外国人相手のホテルが作られたりと、日本人が洋食やコーヒーを口にする機会はどんどん増えていきました。

それでも最初は、ほんの一握りの上流階級の人々の口にする、ハイカラな高級飲料の域を出ることはありませんでした。

日本で最初の本格的コーヒー店は、日本人の鄭永慶が東京上野の西黒門町に開いた「可否茶館」という店でした。

1888年(明治21年)の春のこと、アメリカに留学し、帰国後に官吏や教育者を経てこの店を開いた鄭永慶は、文学者や芸術家達が集うフランスの文学カフェをイメージしていました。しかし時期尚早で、残念ながら数年の後には閉店せざるをえませんでした。

コーヒーの輸入量を見ても明治10年にはじめて18トンが輸入され、明治21年ごろに60トン程度に増え、明治40年代になって80トン程度にはなりましたが、まだまだ多いとはいえず、とても一般の人々に普及する量ではありませんでした。

喫茶店がいくつも開店し、ハイカラ好きの人々や文化人、芸術化がそこに集い、コーヒー文化と呼べるものが日本に根付き始めたのは、明治に終わりに近くなった頃でした。

3.ようやく大正時代にて拡大、近年のグルメ志向(大正時代-現代)

日本でのコーヒー文化の先駆けは、「パンの会」(コーヒー愛好家の会)です。森鴎外が指導して1909年(明治42年)に創刊された文芸雑誌『スバル』のメンバーである北原白秋、石川啄木、高村光太郎、佐藤春夫、永井荷風などが日本橋小網町の「メイゾン鴻の巣」を利用して毎月会合をもっていたのです。

その店は本格的なフランス料理と洋酒を飲ませ、コーヒーも本格的なフランス式の深煎りコーヒーを出していました。メイゾン鴻の巣はさながら文士の社交場だったのです。

明治時代から大正時代にかけて、このような文化サロンの役割を果たすカフェがいくつかできて、日本にもやっとカフェ文化の風が入ってきました。 しかし、いずれもまだまだ一般の人には敷居の高い店ばかりでした。

そんなところに出来た、『カフェ パウリスタ』は、最初こそ文士や文学青年たちの社交場でしたが、一般の人達が気軽に立ち寄れる値段と雰囲気で、あっという間に大繁盛して、大正時代の最盛期には全国に20余りの支店を数えるほどになりました。では、なぜそれほどパウリスタは一般の人々に人気を呼んだのでしょうか。

それは、高級西洋料理店プランタンのコーヒーが当時15銭だった時に、パリやニューヨークのカフェを模しながら、しかもコーヒーの普及とサービスに徹したパウリスタでは、5銭で飲むことが出来たのです。

三分の一の値段で本格的な香り高いブラジルコーヒーを味わうことが出来たので、全国に散らばったパウリスタの店で始めてコーヒーの味を知った日本人の数は数え切れません。パウリスタはコーヒーの大衆化に拍車をかけた店として大きな足跡を残しました。

そして大正時代には確実にコーヒー愛好家が増え、昭和に入ってますます需要を伸ばしますが、第二次世界大戦でコーヒーは『敵国飲料』として輸入停止になります。日本人の生活から一時期コーヒーは姿を消してしまいます。

その後、戦後では昭和25年から輸入が始まり、珈琲は「平和の使者」とばかりに、人々を感激させました。

現在の日本では様々な形でコーヒーが飲まれています。喫茶店と家庭、レギュラーコーヒーとインスタントコーヒー、ホームコーヒーとオフィスコーヒーサービス、各種の缶コーヒー、そしてグルメコーヒー、フレーバーコーヒーという具合です。

近年ではグルメ指向の人も増えてきたおり、よりおいしい本格的なものを求めるコーヒーマニアが増えてきています。

ちなみに、管理人も朝食はパン食なので、おいしいコーヒーは欠かせません。

コーヒーの歴史[世界編]

1.コーヒー発祥における2つの伝説
2.アラビア諸国からヨーロッパに(10世紀初頭-15世紀頃)
3.ヨーロッパから世界各地へ(15世紀初頭-現代)

1.コーヒー発祥における2つの伝説

コーヒー発見には、数多くある伝説の内、二大伝説と言われるものがあります。
それはキリスト教国での説である「ヤギ飼いカルディの話(エチオピア起源説)」とイスラム教国の説である「僧侶シェーク・オマールの話(アラビア起源説)」です。

ヤギ飼いカルディの話(エチオピア起源説)

この説は、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニの「眠りを知らない修道院」(1671年)に記されているもので、6世紀頃のエチオピア高原が舞台です。

ヤギ飼いカルディは、或る日放し飼いにしていたヤギ達が昼夜の別なくひどく興奮しているのを発見しました。

調べてみると、どうも丘の中腹に自生している潅木の赤い実を食べたらしいのです。

近くの修道僧にこれを告げると、それでは試しに食べてみようということになり、食べてみると気分はみるみる爽快になり、体に活力がみなぎってきたのです。

僧はさっそく僧院に持ち帰り、ほかの僧たちにも勧めました。 それからは徹夜の宗教行事のときに睡魔に苦しむ僧はいなくなったということです。

僧侶シェーク・オマールの話(アラビア起源説)

こちらは、回教徒アブダル・カディの「コーヒー由来書」(1587年)に記されているお話で、13世紀頃のイエメン山中が舞台です。

回教僧のシェーク・オマールは、無実の罪でイエメンのモカからオーサバというところへ追放されてしまいました。 食べるものもなく山中をさまよい歩いていると、一羽の鳥が赤い木の実をついばんでは陽気にさえずっているのを見つけたのです。
ためしにその実を摘んで煮出すと、何ともいえない独特の香りがし、飲んでみると、疲れが嘘のように消え去って元気が回復しました。

その後、医者でもあった彼はこの実を使ってたくさんの病人を救いました。 そして罪を許されて再びモカへ帰り、聖者として人々にあがめられたということです。

<どちらの伝説が正しいの?>

管理人の見解ですが、エチオピアは人類の祖先ホモ・サピエンスが住んでいたところでもあります。 また、野生のコーヒーの木は、エチオピアをはじめアフリカ大陸のあちこちで見つかっています。

簡単ですが、上記のことを理由に、文字に残されている伝説より大昔に人々がコーヒーの赤い実を食べていてもおかしくないと考えています。
コーヒー歴史は、エチオピアで始まったと言ってよいと思います。

2.アラビア諸国からヨーロッパに(10世紀初頭-15世紀頃)

その後、コーヒーは10世紀初頭から人々に飲まれ始めたのではないかと考えられています。それは、アラビアの医師ラーゼスが残した記録に、バンと呼ばれる乾燥したコーヒーの実を砕いて水に浸して煎じ、バンカムと呼んで医薬にしていたとかかれているからです。

その約100年後に医学者で哲学者のアビセンナが、バンとバンカムについて、やはり「薬用」だと書き残しています。

このような事から、コーヒーが飲まれ始めた当初は、薬として飲まれていたようです。

その後、長い間コーヒーはイスラム教寺院の中だけに、門外不出の秘薬として伝えられていきました。夜通し行う宗教儀式の前に眠気を払う霊薬として飲まれたのです。そんな中、豆を煎って飲むようになったのは13世紀頃からと考えられています。

13世紀中頃になって初めて、イスラム教の一般信者にその存在が知られ、寺院の回りはコーヒーの露天であふれかえり、人々は、儀式的にお祈りの前にコーヒーを飲むようになったといわれています。

それからメッカ、カイロ、ダマスカスへと伝わっていき、 14世紀中頃には世界最古のコーヒー店「カーネス」が当時のコンスタンチノープルに作られました。

世界的な広まりをみせる中、人々の中でのコーヒーの高い人気に賛否両論が起こり、ついにメッカの地方長官カイル・ベイが「コーヒー禁止令」を発布して最初のコーヒー弾圧をしました。しかし、当時のエジプト国王・サルタンが大のコーヒー好きでありましたので、その「コーヒー禁止令」を知って激しく怒り、すぐさま禁止令を撤回して「コーヒーを飲むのはコーランの教えや宗教上の罪悪にはならない」と宣告しました。

以後コーヒー弾圧は何度か繰り返されます。それだけコーヒーに魅せられる人が多かったということだと思います。

こうして16世紀中ごろにはトルコへ、その後ヨーロッパへと上陸していきます。

3.ヨーロッパから世界各地へ(15世紀初頭-現代)

ヨーロッパ諸国へのコーヒーの広がりは、15世紀初頭のベネチアを皮切りに、ヨーロッパ全土へと浸透していきます。

ローマでは、イスラム教徒の飲み物をキリスト教徒が飲むのはどうかと、賛否両論が持ち上がります。当時の法王クレメンス8世は「悪魔の飲み物といわれるのにこんなにおいしい。これを異教徒に独占させておくのはもったいない」と、コーヒーに洗礼を施してキリスト教徒の飲み物として受け入れました。

イギリスではコーヒーハウスが数多く作られ、紳士の社交場として人気を博しました。男たちはここで政治を語り文学を論じ、ビジネスを展開しました。

当時コーヒーハウスに入れるのは男性だけで、中には家に帰らずに入り浸る男たちも現れる始末。そこで1670年代にはコーヒーハウスの閉鎖を求める主婦たちの嘆願書が出されています。

フランスにもトルコ・コーヒーが伝わります。コーヒーはフランス上流階級をも魅了してやがてサロンが数多く作られ、新しい文学や哲学や芸術も生まれました。その波は一般市民にも及んで、あふれるほどの街角のカフェを生み出していきます。

特に15世紀末に誕生した「カフェ・プロコプ」にはルソーやバルザックなどの文化人が次々に集い、知的サロンとしてにぎわいました。

やがてフランスでドリップ式が、イタリアでエスプレッソが考案されて、コーヒーを飲むスタイルが徐々に変化していきます。

これだけ世界的に人気のあったコーヒーですから、その栽培に興味を持った人たちもたくさんいました。13世紀にはメッカへの巡礼者たちが大量の生豆を持ち出し、それが各地に植えられ、17世紀にもインド人のババ・ブーダンがイスラム巡礼の際に、メッカからコーヒーの実を盗み出して南インドのマイソールに植えています。

また、18世紀前半にはフランス海軍の将校ド・クリュー自分の飲み水を注いでコーヒーの苗木を守り、フランス領マルチニーク島に運んだという話が残っています。これがやがて中南米へと広がって行たのです。こうしてコーヒーの広まりと同時にコーヒーの栽培も世界各地に拡大していったのです。